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東京地方裁判所 昭和31年(行)85号 判決

判  決

栃木県芳賀郡益子町大字益子二八九四番地

原告

加藤悦夫

右訴訟代理人弁護士

久保田昭夫

山本博

(但し、八五号事件についてのみ)

舎川昭三

(同右)

右訴訟復代理人弁護士

陶山圭之輔

三浦久

東京都千代田区霞ケ関二丁目一番地厚生省内

被告

社会保険審査会

右代表者委員長

川上和吉

右指定代理人法務省訟務局第四課長検事

家弓吉己

同法務省訟務局付検事

鰍沢健三

同法務事務官

佐藤恵三

同厚生事務官

三井速雄

前川聡

則内瑞朗

高木勉

飯岡繁二

右当事者間の昭和三一年(行)第八五号健康保険受給資格確認請求(以下において単に八五号事件という)、昭和三三年(行)第一三〇号傷病手当金に関する裁決取清請求(以下において単に一三〇号事件という)併合事件について当裁判所は次のとおり判決する。

主文

被告が原告に対し昭和三一年三月一二日付及び同三三年三月一四日付でした各裁決は、これを取消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立

一、原告の申立

主文と同旨。

二、被告の申立

原告の請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

第二、原告の主張

一、原告は昭和二七年五月二一日健康保険法第一三条第一項に定める強制適用事業である東京都中央区西河岸通二丁目七番地所在の訴外合資会社八幡製作所に旋盤工として雇われ、同法による健康保険の被保険者たる資格(以下において単に資格ということもある。)を取得したが、昭和二八年三月二五日同会社を退職したゝめ同法第一八条によりその翌日である三月二六日限り右資格を喪失した。

二、ところで原告は右健康保険の被保険者たる期間内の昭和二七年一二月一〇日に結核性の右肺浸潤――肺結核に罹患し、同月一一日に新宿区十二社四二〇番地所在崎田医院において、保険医である訴外崎田平二医師の診察を受けたところ、同医師はこれを単に気管支炎と診断し、引続いて四月一二日及び一五日に気管支炎としての治療及び薬剤の支給を受け一旦は気管支炎の症状はなくなつたものゝ翌二八年二月一日からは再び健康状態が悪くなつたゝめ、前記会社への勤務が不能になり、会社を休んで家庭で療養をするに至つた。そして同月一一日と一三日(以下において年月日を示すのに、特に年数を示さない場合は昭和二八年を指称するものとする)。に前記崎田医師により血沈検査、レントゲン検査等の診療を受けた結果、明白に肺結核(結核性の右肺浸潤)で三ケ月の休養を要するものと診断されたので、以後同医師の指導のもとに療養を続け、三月六日、及び同月二五日には同医師の右疾病についての治療並びに療養指導を受けたが、同医師による療養の給付の継続中前記のごとく資格を喪失するに至つた。

三、(八五号関係)(一)そこで原告は、昭和三〇年一〇月二四日訴外東京都知事に対し、健康保険法第五五条により資格喪失後の継続療養の給付を求めるべく、資格喪失後継続療養受給届を提出したところ、同知事は同年一〇月二五日右継続給付を認めない旨の処分をしたので、原告はこれを不服として訴外東京都社会保険審査官に対し同年一〇月二七日審査の請求をしたところ、同審査官も同年二月二六日右審査の請求を棄却した。そこで更に同年一二月一四日被告に対し再審査の請求をしたところ、被告は昭和三一年三月一二日、次のごとき理由、すなわち原告は昭和二八年三月六日に前記崎田医師の診療を受けたものを最後に以後同年九月原告の現住所に帰り栃木県の真岡保健所で診療を受けるまでは全然医師の診療を受けておらず、資格喪失の際(同年三月二六日)に療養の給付を受けていたものとは言えないから継続療養給付のための要件を備えないとして、原告の再審査の請求を棄却する旨の裁決をした。

(二) しかしながら右裁決には、次のごとき違法があるので、これを取り消すべきである。

すなわち、(イ)原告は前記のごとく、昭和二八年二月一一日前記崎田医師の診察を受け、肺結核と診断されてより引続いて同医師の治療及び療養指導を受けていたものであり、同年三月六日以降においても、同月二四日頃前記会社の係員が右崎田医師の所に預けてあつた原告の健康保険証を原告に無断で持ち去つたため、それ以後原告が受けた治療は、診療記録に記載されていないが、同月二五日に同医師から治療及び療養方法の指導を受けた。そしてその後間もなく、原告の現住所に帰郷し同所において崎田医師の指導に従い療養に努めていたのである。それ故その後同年九月に真岡で同疾病につき、診療を受けるまでは、特に医師から投薬注射等の特段の治療を受けていないとしても右のように医師の指導に従つて静養を続けていた以上、療養を継続していたものというべきであるから(本件疾病である肺結核のごとき長期療養を要するものについては、医師から現実に治療を受けなかつたからといつて直ちに治療を中止したとはいえないのであり、原告は治療の必要がなかつたから受けなかつたのではなく、経済的に困窮していたゝめ、治療を受けることができなかつたにすぎない。)、原告が前記三月六日の崎田医師の診療を最後に九月に再診療を受けるまでの間療養を中止し、したがつて原告の資格喪失当時療養の給付を受けていなかつたとする被告の判断は誤りである。(ロ)仮に原告の右静養をもつては療養を受けていたものとなし難く、したがつてその期間は現実に療養の給付を受けていなかつたものであるとしても、原告が肺結核症により療養を要する状態にあつたことは明らかであるところ、健康保険法第五五条第一項にいわゆる「保険給付ヲ受クル者」とは、資格喪失時に現実に療養の給付を受けている場合のみでなく、抽象的に保険給付の受給権が発生している場合、すなわち保険給付を受けうる状態にある場合をも含むものと解すべきであるから、原告は同条の規定により継続給付を受ける資格を有するものといわなければならない。

(三) それ故原告が資格喪失後継続して保険給付を受ける資格を有しないとして原告の前記再審査請求を棄却した被告の裁決は違法であり、取消されるべきものである。

四、(一三〇号関係)(一) 次に原告は前記のごとく、昭和二八年二月一日以降疾病のため労務に服することができなかつたので、これを理由として昭和三一年二月一〇日、東京都知事に対し、前記訴外同会社に昭和二八年四月三〇日まで勤務していたものとして、健康保険法第四五条にもとずくその間の傷病手当金と、原告が被保険者の資格を喪失し同年五月一日以降については同法第五五条にもとずき昭和三一年二月八日までの傷病手当金を各請求したところ、同知事は同年三月六日これをすべて支給しない旨の決定をなしたので、原告はこれを不服として同年五月四日東京都社会保険審査官に対し、審査の請求をしたところ、同審査官も同年七月三日これを棄却したので、被告に対し再審査の請求をしたところ、被告は第一に同法第四五条の傷病手当金の支給関係については、原告は昭和二八年二月一日から同年四月三〇日迄の間労務に服し得ない状態ではなかつたし、また原告が右請求をなした昭和三一年二月一〇日までには右傷病手当金請求権は時効により消滅しているからという理由で、第二に同法第五五条の資格喪失後の傷病手当金支給関係については、原告が資格を喪失した時期を同年三月二六日と認定した上、右資格喪失の際、上に述べたように傷病手当金を支給すべき関係がなかつたのであるから、右関係があることを前提として資格喪失後の傷病手当金を請求する資格がないという理由で昭和三三年三月一四日付で再審査請求を棄却する旨の裁決をした。

(二) しかしながら、右裁決のうち同法第五五条にもとずく傷病手当金の継続給付の申請を排斥した部分には、次のごとき違法があるので、取り消されるべきである。すなわち資格喪失後の傷病手当金の支給を受けるためには、右裁決理由にも言うように資格喪失の際同法第四五条の傷病手当金の受給資格があることが必要であるが、同法第四五条にいう「労務不能」かどうかは被保険者の当時の作業の実態を標準として認定すべきものであつて、その者が本来の業務につき得ないためやむなく副業や内職のごとき本来の業務とは関係のない付の業務に従事したとしても、それをもつて労務が可能とは言えないし、また疾病状態が現実に発生していなくとも、その作業を続ける場合、医学通念上病状変化が予想される場合には、労務不能と認定すべきである。ところで原告は、当時前記訴外会社に旋盤工として勤務していたが、昭和二八年二月一日以降前記疾病のため右勤務に従事し得なくなつたものであり、被保険者の資格を喪失した当時は労務不能の状態にあつたと言うべきである。もつとも原告は、右資格喪失の際に現に傷病手当金の支給を受けてはいなかつたけれども、同法第五五条にいう「保険給付ヲ受クル者」とは、さきに述べたように必ずしも現実に給付を受けていたことを必要とせず、これを受けうる状態にあつたことを意味するものであり、原告は当時労務不能で傷病手当金を受け得る状態にあつたのであるから、前記資格喪失の日である昭和二八年三月二六日より昭和三一年八月三日までの間については、傷病手当金の受給資格があると言うべきである。

(三) それ故被告が原告に傷病手当金請求権が全くないとした本件裁決は違法であつて、取り消されるべきものである。

五、被告の主張事実中、第三の二の(四)記載の原告が訴外吉田隆蔵に雇傭されていたとの事実は否認する。その余の主張もすべて争う。

被告は、原告が資格喪失後約六ケ月間療養給付を受けていなかつたから本件訴訟につき法律上の利益がないと主張するが、それはむしろ本案請求権の有無の問題であり、資格喪失後一定期間給付を受けていなかつたとしても、それは健康保険法第五五条所定の要件の充足とは何ら関係がない。また、被告は、原告が被保険者として給付を受けることをうべかりし期間はすでに満了しているから、原告は訴の利益を欠くものであると主張するが、原告は本件裁決の取消しにより資格喪失後も継続して保険給付を受けうることになるのであるから、訴の利益を欠くものといえない。もしそうでなければ、原告は、その受けうべき給付相当金額を国家賠償法の規定によつて賠償を受けない限り保護を受け得ないという不合理を生ずることになる。

第三、被告の主張

一、本案前の主張

原告の療養の継続給付の申請を排斥した訴願裁決の取消しを求める訴は、その利益がない。

すなわち、健康保険の被保険者であつた者が、その被保険者資格を喪失した時に疾病について療養の給付を受けていた場合には資格喪失後もその疾病について療養の給付が受けられるが、資格喪失後の療養の給付は、資格喪失時の療養の給付に継続している限りにおいてのみなされるのである(健康保険法第五五条)従つて継続療養給付を受ける者であつても、一たん療養をやめたような場合には、たとえ療養の給付を受けうる期間内であつても、その後においては再び療養の給付を受け得なくなるのである。しかるに、原告は昭和二八年三月二六日に被保険者資格を失つたものであつて、仮にこの時右肺浸潤について療養の給付を受けていたものであるとしても、その後は同年九月に真岡保険所で診療を受けるまで何ら療養の給付を受けていなかつたのである。そうすれば、原告は現在なお右疾病について加療の必要があるとしても、もはや療養の給付を受けることができなくなつているのであるから、原告には被告のした前記裁決の取消しを求める法律上の利益はない。のみならず、健康保険法第五七条の三第二号によれば、同法による療養の給付は、その開始後三年間に限られ、それ以後は給付を受けることができないとされており、原告に対する療養の開始日は昭和二八年二月一〇日であるから、これから三年を経過した昭和三一年二月一一日以降においては、たとえ右裁決が違法であるとして取り消されても、原告はもはや療養の給付を受けることはできないわけであり、したがつてその取消しを求める利益はないものといわなければならない。

二、本案に関する主張

(一)  原告の主張する第二の一の事実は認める。

(二)  同二の事実のうち、原告が前記被保険期間中、昭和二七年一二月一一日、一二日及び一五日の三回にわたり前記崎田医師の診察を受け、気管支炎の診断のもとに治療及び薬剤の支給を受けたことは認めるが、その時すでに本件疾病たる肺結核に罹患していたことは否認する。また翌昭和二八年二月一一日、一三日及び同年三月六日に、それぞれ同医師の診察を受け、原告主張のごとき病名の診断のもとに血沈、レントゲン検査及び薬剤の支給を受けたことは認めるが、右昭和二八年二月の診療の際同医師が三ケ月間要休養の診断をしたことは知らない。その余の事実は否認する。

(三)  同三の(一)の事実は認める。同三の(二)の(イ)の事実のうち前記崎田医師の診療を受けたことは認めるがその余は否認する。同(ロ)の主張は争う。原告は本件疾病につき昭和二八年三月六日崎田医師の診療を受けたのを最後に、その後同年九月に原告の現住所に帰つて栃木県真岡保健所で診療を受けるまでの間は、全然医師の診療を受けておらず、原告が被保険者の資格を喪失した時には療養の給付を受けていなかつたのであるから、継続して医療給付を受ける資格を有しておらず、従つて被告の裁決にはなんらの違法はない。

(四)  同四の(一)の事実のうち昭和二八年二月一日以降原告が前記疾病のため労務に服することができなかつたことは否認するが、その余の事実は認める。同四の(二)は争う。健康保険法第四五条にいうところの疾病の療養のため労務に服することができないというのは、現実にいかなる労務にも服さなかつたことを言うのである。そもそも同法は、他人に雇傭されている者を対象としており、被傭者が疾病のため労務に服することができなくなつた場合に、その生活の保障として支給されるのが同法第四五条に定める傷病手当金であつて、単に家事の手伝いをしたり内職をしたりすることは右に言う労務に該当しないことは言うまでもないが、これに反し療養中と言えども他人に雇傭されて、疾病を悪化せしめない程度にしろなんらかの労務に服する以上は、たとえそれが臨時の一時的なものであつても、またその報酬が従来のそれに比しいかに少なくても、同法にいう労務に服したことになるのである。のみならず、資格喪失後の傷病手当金は、その支給事由の発生した時から労務不能の状態が継続している限りにおいて一年六ケ月間支給されるもので、右期間の途中たとえ一日でも労務に服すれば、それがため疾病が悪化して再び労務に服することができなくなつても、爾後右の傷病手当金は支給されないのである。ところで原告は昭和二八年二月一日以降前記訴外会社をやめるまでの間はもとより、それ以後も同年八月頃まで、東京都新宿区下落合四丁目二一九八番地の訴外吉田隆蔵に雇傭され、同人のもとで働いていたのであるから、その期間は労務に服することができなかつたものとは認めることができず、従つてその間の傷病手当金を請求し得べくもないし、また右資格喪失当時労務に服していた以上、その後において右疾病のため労務に服することができなくなつても、同法第五五条によつて資格喪失後における傷病手当金の支給を求めることはできない。

なお原告は昭和二九年二月一一日から昭和三一年八月三日までの間の傷病手当の支給を受ける権利があると主張するが、仮に傷病手当の継続的受給権を有するとしても、健康保険法第四七条第一項第二項同法施行規則第五六条の四によれば、傷病手当金の支給期間は支給事由の生じた日から一年六月の間に限られており、また傷病手当金の支給に当つては同法第四五条によつて三日間の待期期間があるので、これを原告の場合についてみると、支給事由の発生した日は昭和二八年二月四日となるから、支給期間は翌昭和二九年八月三日までとなり、それ以後はたとえ同一疾病のため労務に服することができなくても、法律上もはや傷病手当金の支給を受けることができないものである。

第四、証拠関係<省略>

理由

第一、被告の八五号事件についての本案前の主張について。

被告は、原告は昭和二八年三月二六日に被保険者資格を失つた後同年九月真岡保健所で診療を受けるまで何ら療養の給付を受けておらず、継続して療養の給付を受けていなかつたから、もはや療養の給付を受けることができず、従つて本件裁決の取消しを求める法律上の利益がないと主張する。しかしながら、原告が昭和二八年六月二六日被保険者資格を失つた後同年九月真岡保健所で診療を受けるまでの間においても引き続き療養の給付を受けていたものと認めるべく、なお継続して療養の給付を受けうべきものと解すべきこと後に本案の判断において説示するとおりであるから、被告の右主張は理由がない。

次に被告は、仮に原告が健康保険法第五五条により資格喪失後も継続して療養の給付を受け得る資格があつたとしても、右の受給期間は同法第五七条の三第二号により昭和三一年二月一〇日までであるから、原告は現在においては、もはや療養の給付を受けることができず、従つて本件裁決の取消を求める利益がないと主張するので、この点について判断する。健康保険法は、被保険者に対するその疾病または負傷に関する給付の内容につき、いわゆる現物給付を建前とし、同法第四三条において診察、薬剤又は治療材料の支給、処置手術等医師歯科医師または薬剤師による直接の療養の付与を定めている。このような療養のいわゆる現物給付はその性質上すでに過ぎ去つた期間の分についてはこれを求めることは不可能であり、また無意味でもあるから、もし同法による療養給付が右のごとき現物給付に限定されているとすれば、給付開始後すでに三年以上を経過した後かかる給付を求める権利を回復するために本件裁決の取消しを求める利益は当然否定されなければならない。しかしながら、健康保険法は、疾病または負傷に関し右のごとき現物給付たる療養の給付のほかに、一定の場合に金銭給付をなすべきことを定めている。すなわち同法第四四条によると、保険者が療養の給付をなすことが困難であると認めたとき、または被保険者が緊急その他やむを得ない場合において保険医及び保険者の指定する者以外の医師、歯科医師その他の者の診療または手当を受けた場合において、保険者がその必要ありと認めたときは、療養の給付にかえて療養費を支給することができることとされている。この規定は、一見療養の給付にかえて、療養費の支給をなすかどうかを給付者たる保険者の裁量的認定に委ねているようにみえるが、健康保険法が賃金等により生計を維持する低所得者たる被傭者の疾病、負傷等不慮の事故による経済的な困難を救うための社会保障制度の一つとして健康保険制度を設け、これらの者に対して疾病や負傷に関し必要な療養を保障しようとするものである趣旨にかんがみるときは、いやしくも客解的に療養の給付をなすことが困難であると認められるとき、または緊急その他やむをえない事由により保険者の指定する以外の医師等から療養を受けた場合において必要があると認められるときには、保険者は、療養の給付にかえて療養費を支給しなければならないものと解すべきものであり、例えば保険者の指定する医師がいない地域で罹病した場合や重症患者が緊急の診療を要するため最寄りの保険医療機関でない病院にかかつた場合のように、保険医による現実の診療が不可能ないしは著しく困難であるような場合のみならず、例えば保険者等が誤つて療養の給付を拒否した場合のように、療養の給付を受ける資格を有する者が自己の責に帰することのできない事由により療養の給付を受けることができないため、やむをえず自己の費用において医療を受けた場合をも含むものと解するのが相当である。けだし、そのように解することが健康保険制度の上記趣旨に合致するゆえんだからである。そうだとすると、本件において、もし原告に療養の継続給付を受ける資格があり、これなきものとした、東京都知事の決定およびこれを認容した被告の裁決が違法であるとして取り消された場合には、原告はさかのぼつて現実に自己の費用において医療を受けた部分について前記法第四四条の規定による療養費の支給を受ける権利を回復する可能性を取得することとなるわけであるから、本訴において本件裁決の取り消しを求める法律上の利益があることは明白であると言わなければならない。よつてこの点についての被告の主張は理由がない。

第二、本案についての判断

一、原告が昭和二七年五月二一日、健康保険法第一三条第一項に定めるいわゆる強制適用事業所である東京都中央区西河岸通二丁目七番地所在の訴外合資会社八幡製作所に旋盤工として雇われ、同法による健康保険の被保険者たる資格を取得したが、昭和二八年三月二五日に同会社を退職したため、同法第一八条によりその翌日たる二六日限り右資格を喪失したこと、(イ)原告が、昭和三〇年一〇月二四日訴外東京都知事に対し、昭和二八年二月一一日より右資格喪失時に至るまで肺結核で訴外崎田平二医師から健康保険による医療をうけていたという理由で、右資格喪失後を引き続き同保険による医療の給付を受けるべく、同法第五五条に基づいて資格喪失後療養給付受給届を提出してその給付を求めたところ、同知事は、同月二五日右継続療養給付はできない旨の処分をしたので、原告はこれを不服として、同月二七日訴外東京都社会保険審査官に対し、審査の請求をしたところ、同審査官も同年一一月二六日右審査請求を棄却したこと、そこで原告は、同年一二年一四日被告に対し再審査の請求をしたところ、被告は昭和三一年三月一三日次のごとき理由、すなわち、原告は、昭和二八年三月六日に前記崎田医師の診療を受けたのを最後に同年九月原告の郷里にある真岡保健所で診療を受けるまでは、全然医師の診療を受けていないから、資格喪失の際の同年三月二六日に現に療養の給付を受けていたものとは言えないとして、右再審査請求を棄却する裁決をしたこと、次に(ロ)原告は、昭和三一年二月一〇日東京都知事に対し、昭和二八年二月一日以降前記疾病のため労務に服することができなかつたという理由で、同法第四五条に基づき同年四月三〇日まで前記会社に勤務していたものとしてその間の労務不能による傷病手当金、及び同法第五五条に基づいて同会社退職後の同年五月一日から昭和三一年二月八日までの資格喪失後の傷病手当金の支給を請求したところ、同知事は、昭和三一年三月六日これを支給しない旨の処分をしたので、原告はこれを不服として同年五月四日東京都社会保険審査官に対し審査の請求をしたところ、同審査官は同年七月三日これを棄却したことそこで原告は同年八月二七日被告に対し再審査の請求をしたところ、被告は、同法第四五条の傷病手当金の支給関係については、原告は昭和二八年二月一日から同年四月三〇日までの間労務に服し得ない状態ではなかつたし、またその間の傷病手当金請求権があつたとしても、原告が右支給申請をした昭和三一年二月一〇日までには、すでに同法第四条所定の二年間の時効期間が経過しているので、すでに右請求権は時効により消滅していること、また同法第五五条による傷病手当金の支給関係については、原告が健康保険の被保険者たる資格を喪失した日を昭和二八年三月二六日と認定した上、右資格喪失の際右のごとく労務不能の状態でなく傷病手当金を支給すべき関係になかつたのであるから、資格喪失後の傷病手当金を受給すべき資格はないという理由で、右再審査の請求を棄却する裁決をしたこと、以上の諸事実は当事者間に争いがない。

二、よつてまず原告が前記被保険者資格を喪失した昭和二八年三月二六日当時健康保険法第五五条第一項所定の継続して医療給付を受ける要件を具えていたかどうかについて判断する

(一)  原告が昭和二八年二月一一日および同月一三日の二回に東京都新宿区十二社四二〇番地の保険医崎田平二の診察を受け、血沈検査、レントゲン検査の結果肺結核と診断せられ薬剤の支給を受けたこと、同年三月六日同医師の診察を受けたこと、ならびに同年九月栃木県真岡市真岡保健所において診察を受けたことは当事者間に争いがなく、右事実と(証拠)をあわせると、原告の前記病気療養に関する一般的経過は、次の如きものであることが認められる。すなわち

(1) 原告は昭和二七年一二月(乙第五号証の一によれば一一月と記載されているが、一二月であることは争がない。)一一日、一二日、一五日の三回に前記崎田医師の診察を受け気管支炎の診断の下に薬剤の支給を受けたが、右疾病はその頃治愈した。もつとも原告はその当時すでに肺結核ではないかと疑い、レントゲン写真を撮影して欲しいと崎田医師に頼んだが、同医師はその必要がないとしてこれを容れなかつた。

(2) その後原告は翌二八年二月一日頃から体が疲れやすく、不眠衰弱感があり、元気がない等の身体の異常を感じたので、勤務先である前記訴外会社を休んで休養していたが、同月一一日再び崎田医師の診察を求め、レントゲン検査の結果、右肺尖部に結核性肺浸潤があると診断された。もつとも、同医師の所見によれば、右浸潤は比較的軽微であり、血沈検査の結果も一時間一五ミリ程度で特に不良というわけでもなく、また熱もないので、同医師は即刻特別の治療を要するほどの病状でないと考え一一日と一三日の二回に精神安定剤を主体とする薬剤を二日分ずつ交付したほか、体温表を与えて毎日体温をはかつて記入することを命じ、かつ、当分安静にするようにとの指示を与え、原告の請求により昭和二八年二月一日から同年四月末日まで三カ月間の要静養の診断書を交付するにとどまつた。(原告本人尋問の結果(第一、二回)中二十日間の絶対安静を命ぜられた旨の供述部分は、前掲乙第五号証の一の記載、崎田証人(第一、二回)、松本証人の各証言と対比して、信を措き難い。)なおその際崎田医師は、原告の喀痰を採取し、その検査を訴外東洋微生物研究所に依頼し、そのうち塗沫鏡検検査の結果は同月一四日、培養鏡検検査の結果は第一回が同年三月五日最終回が同年四月二二日いずれも陰性である旨右研究所から崎田医師に回答されたが、右培養検査の最終結果については、原告から崎田医師に対する問い合わせもなく同医師から原に対する通知もなかつたし、同医師のカルテにも記載されていない。(ただし上記喀痰検査についての料金の支払がどうなつているかは、本件にあらわれた証拠からは明らかでない。)

(3) その後原告は、崎田医師の指示に従い、自宅において静養していたが、前記三月一三日に二日分の薬を貰つたのちは同医師から薬をもらうこともなく、また格別診察を受けるということもなかつたところ、のちに述べるように会社を休んでいたため給料を貰うことができず、他方会社の方で請求してくれると思つていた傷病手当金がいつこうに貰えないので、生活費に困窮し、かたがた静養の結果気分も多少よくなつたので、同年三月六日頃崎田医師に相談し、同医師から軽い労働ぐらいはしてもよいだろうと言われて、その頃から会社を欠勤したまま知人である訴外吉田隆蔵の仕事の手伝いをするようになつた。(もつとも前掲乙第五号証の一によれば、崎田医師のカルテには、右三月六日にTB培養(一)とあるのみで、同日原告を診察した旨の記載はなく、同医師自身もその頃原告を診察し、療養に関する指導を与えた記憶はない旨証言しているが、簡単な診察や患者に対する療養指導についてはカルテに記載しない場合が少なくなく、また多数の患者を相手とする医師として特定の患者が、特定の日に診察ないしは療養に関する指導を求めに来たかどうか等はいちいち記憶していないことは崎田証人自身が証言しているところであるから、右の証拠は末だ上記認定を覆えすに足りないのみならず、三月六日に原告が崎田医師から診療を受けたことは、前記のとおり被告自身も認めているところである。)

(4) ところが原告が会社を欠勤したまま他所で働らいていることが会社に知れ、同会社の職員浅岡利雄が同年三月二〇日過頃崎田医師のところに預けてある原告の健康保険証を原告に無断で取り上げてしまつたので、原告はこれを知つてその頃(原告は三月二五日であると主張し、原告本人尋問の結果中(第一、二回)にはこれに沿う部分が存するが、右は直ちに採用し難く、他に右の日時を正確に特定しうる証拠はない。もつとも前後の関係から推して原告が前記会社を退職した三月二六日の一、二日前であろうと推測される。)

崎田医師を訪れ、右保険証の取り上げの事実を確認したが、その際同医師に対して今後の療養に関する相談をし同医師から生活保護法による給付を求めたらどうか等の忠告を受けたほか、療養に関する一般的注意をも受けた。(同医師のカルテには、右の事実は記載されていないし、同医師の証言自体もこの点についてはすこぶるあいまいであるが、さきに(3)のかつこ内で述べたと同様の理由により、これらは上記認定を妨げるものではない。)

(5) その後原告は崎田医師の診療を受けたことがなく、他方原告は上記(4)のような事情により勤務先の会社をやめなければならなくなり、三月二六日会社を退職し、引き続いて吉田の仕事の手伝いをしていたが、病状は必ずしも思わしくなく、同年六、七月頃意を決して京橋社会保険出張所で保険診療を受けられるかどうかを問い合わせたところ、同出張所係官において被保険者資格を有していた期間が、六カ月に満たないものと誤断し、継続給付が不可能であると回答したので、原告はやむを得ず保険診療を受けることを断念し、同年八月頃郷里である栃木県真岡市に帰り九月ごろ自費で前記真岡保健所の診療を受け、同年一一月益子町の松谷医院に入院し、療養生活に入つた。しかし、前記三月二〇日過頃崎田医師の許を訪れたのちは、同年八月に真岡診療所で診察を受けるまでの間崎田医師はもちろん他の医師から診察、治療、療養の指導等を受けたことはなかつた。

以上のように認定することができる。

(二)  そこで、右認定事実を基礎として原告が健康保険法第五五条第一項にいわゆる被保険者資格喪失当時たる昭和二八年三月二六日頃療養の「給付を受くる者」であつたかどうかを考えるに、原告は、肺結核症の如く長期療養を必要とする疾病については、患者自身が療養を中止する意思を明らかにしない限り、現実に診療を受けていなくともなお療養を継続しているものというべきであると主張し、被告はこれを争い、被保険者資格喪失当時現実に療養の給付を受けていなければならないと主張する。思うに、健康保険法において療養の継続的給付を認めた理由が、一般に疾病等の治療については相当の長期間の療養を要する場合が少なくなく、かような疾病等について被保険者資格の喪失と同時に療養の給付を打ち切り、じ後はその者の負担において療養を継続せしめることとするときは、実際上療養を継続すること自体が著しく困難となり、経済的能力に乏しい勤労者に対して安んじて疾病等に関する治療を受けさせようとする同法の目的自体に反する結果となる弊を救済しようとするにあることを考えるときは、被保険者がその資格を喪失した当時なんらかの理由によりたまたま一時的に、診察、治療、療養指導等の具体的な医療行為を現実に受けていなかつたとしても、このことの故に直ちに当然に療養の給付を受けていないものとするのはあまりにも狭い形式的な見解というべきであつて、当該疾病等の性質、その治癒に必要な療養の内容および性質、具体的な医療行為を受けていない理由等に照らし、当該被保険者が疾病等の療養を放棄、断念または廃止したわけではなく、依然として療養を継続する意思と必要性を有し、全体としてみれば、なお療養の状態が継続しているものと認められる限りは、なお現実に療養の給付を受けているものと認めるのが相当である。これを本件についてみるに、原告が本件疾病である肺結核症に関して前記崎田医師の診療を受けたのは、昭和二八年二月一一日が最初であり、同月一三日にも診察を受け薬剤の支給を受けたことは前記のとおりであるが、その後同年三月六日頃療養に関する指導を受けるまでは診察、治療等の具体的な医療を受けてはいないし、さらにその後同月二〇日過頃に同医師から今後の療養生活に関する一般的助言を受けるまでの間も同様であるのみならず、右最後の崎田医師の一般的助言も、果して健康保険法にいう療養の給付といいうるものであるかどうかも疑わしい程度のものであり、かつ、その後同年八月までの間は同医師のみならず他の医師の診療を受けたことは一回もないのであるからこれらの事実に照らすときは、原告自身療養の継続を放棄または断念し、療養の状態は中絶していたものと認むべきであるように考えられないでもない。しかしながら肺結核症は、その性質上、初期においては自覚症状も少なく、投薬注射等の具体的治療を継続して行なうことは必ずしも必要でなく、間を置いて医師の診察、指導を受けながら、過激な労働を避け、適当な安静をとり、努めて栄養のある食物を摂取する等の方法によつて療養を行ない、その傍ら軽微な勤労に服することも不可能ではなく、かかる状態もまた療養の一種であり、その間になされる医師の診察や指導も療養の給付たることを失わないものというべきところ、証人崎田平二の証言(第一、二回)によれば、同医師は原告の病状は比較的軽く、さしあたり気胸療法、外科的手術、化学療法等の特段の治療行為を必要とする程ではないと診断したが、もとより疾病自体が療養を必要としない程度のものであると考えたわけではなく、当分は前記のような適当な安静、食餌療法によつて病状の推移をみるという態度をとつていたことが窺われ、(証人松本一郎の証言によるも、右崎田医師の診断に格別の誤りはないことが認められる。)また原告本人尋問の結果(第一、二回)によれば原告自身としても、もとより自己の疾病たる肺結核症が治癒したもの、あるいは格別の療養を必要としない程度のものと考えていたわけではなく、むしろ医師の指示どおり一切の労働を避けて安静を続け、その間絶えず医師の診察を受けてその指導の下に療養に専念したい意向をもつていたものの、経済的な事情により比較的軽微な労働に服さざるをえなくなつたが、しかしこれによつて療養を断念したわけではなく、自覚症状に変化があれば、直ちに医師の診療を受ける態勢と心構えをもつており、前記三月二〇日過頃崎田医師から今後の療養方針に関し一般的助言を求めたのもそのあらわれに外ならないこと、そしてその後数カ月間医師の診療を受けなかつたのも、ひとつにはさしあたりは格別病状の変化を自覚しなかつたことと、またひとつには健康保険医の診療を受けることができないのではないかと思つていたことによるものであることが認められ、これらの事情に加うるに前記認定のようにその後病状が悪化し、同年末頃入院加療を余儀なくせられたことからも窺われるように当時原告はなお療養を必要とする症状にあつた事実を総合して考えるときは、前記のように原告が被保険者資格を喪失するまでの間、現実に医療を受けた回数が少なく、しかもかなり間けつ的であり、また最後のそれは療養の給付という程のものであるかどうかも疑わしい程度のものであるとしても、なお全体としてみれば療養を放棄または断念したものではなく、右資格喪失当時及びその後同年八月帰郷し九月真岡保健所で診療を受け、次いで十一月松谷病院に入院するまでの間引き続き療養の状態はなお継続して存在していたものと認めるのが相当である。もつとも、前掲乙第五号証の一によれば崎田医師のカルテには、原告が昭和二八年二月一三日投薬を受けた直後に診療を中止した旨の記載があることが認められるけれども、同号証および前掲甲第七号証の各記載と崎田証人の証言および原告本人尋問の結果(各第一、二回)によれば、右は同医師が、原告から前記三月二〇日過頃郷里に帰つて療養したい意向をもつていることを聞き、その後原告の来診がないので保険者に対する診療費請求の関係と診療簿の整理の必要上、中止と記載したにとどまることが窺われるから、右の事実は上記判断を変更せしめるものではない。(崎田証人の証言中、同人が原告から帰郷療養の意向を聞いたのは最初に診療を行なつた二月一一日または一三日頃である旨の部分は、これを除く前掲各証拠と対比して採用し難い。)そうだとすれば、原告は被保険者資格喪失当時(及びその後同年末の入院時までも)なお療養を必要とする状態にあり、現にこれを継続していたものであるから、その当時現に療養の給付を受けていたものと認めるのが相当であつて、これと異なる判断の下に原告が療養の継続給付を受ける資格がないとした本件裁決は違法であり取消しを免れないものといわなければならない。

(三)  のみならず、右規定にいう、療養の「給付を受くる者」を被保険者資格喪失当時現実に療養の給付を受けている者のみに限定すること自体も必ずしも正当な解釈ということはできないのであつて、同法において療養の継続的給付を認めた理由が、前記のとおり被保険者資格の喪失と同時に療養の給付を打ち切り、じ後はその者の費用において療養を継続せしめることとするときは、実際上療養を継続すること自体が著しく困難となり、経済的能力に乏しい勤労者に対して安んじて疾病等に関する治療を受けさせようとする同法の目的に反する結果となる弊害を救済しようとするにあることを考えるときは、被保険者がその資格保有中罹病して療養の給付を受けていた場合には、被保険者資格喪失当時たまたまなんらかの理由により療養が一時中断されていたとしても、当該疾病等が治癒したわけではなく、同一疾病につき、なお引き続き従前どおり療養を必要とする状態にある限りは、継解して療養の給付を受ける資格があるものと解するのが妥当であり、かく解しても格別の弊害を生ずるものとは考えられないのである。(同様に、被保険者が資格喪失後次に療養の給付を受けるまでの間、療養を一時中断したが、その当該疾病が治癒したわけではなくなお引き続き療養を要する状態にある場合にも継続して療養の給付を受けうるものと解すべきである。)そうだとすれば、仮に本件において原告が被保険者資格を喪失した、当時(及びその後同年九月まで)療養を継続しておらず、現実に療養の給付を受けていたものということができないとしても、前記のようになお療養を必要とする状態が従前から引き続き継続して存在していたものである以上、原告は療養の継続的給付を受ける資格を有していたものというべく、従つてこの点からも原告の請求は理由があるものといわなければならい。

三、次に原告の傷病手当金の請求について判断する。

(一)  前認定のように、前記崎田医師の診断によれば、当時の原告の病状は比較的軽いもので、療養に専念する絶対的必要があつたわけではなく軽労働をしながら療養しても、特に病状に影響はないと認められる状態であつたところ、(証拠)によると次の事実を認めることができる。

すなわち、前認定のように、原告は、自分の健康状態に異常を感じたため、昭和二八年二月一日より勤務先である前記会社八幡製作所を休んで家で静養していたが、同年二月に前記崎田医師から肺結核という診断を受けたので、労務不能による傷病手当金を受けるべく、その頃、同医師より肺結核で三カ月間の休養を要する旨の診断書を得て勤務先に提出したけれども、一向に傷病手当金が降りる気配がなく、他方原告の受ける給与は日給で会社を休んでいるため給料は全然貰えず生活に窮するに至り、崎田医師と相談の上かつて原告の現住所において共に協力して乾麺結束機の発明研究事業に従事したことのある東京都新宿区下落合四丁目二一九八番地訴外吉田隆蔵を訪れて生活方針について相談したところ、当時訴外株式会社三栄よりパン乾燥機の発明を依頼され、その約束の完成期限がせまつていたため適当な助手を必要としていた吉田から、傷病手当金が降りるまで自己の仕事の手伝いをしてはどうかという好意ある申し出を受けたので、原告は右申し出に応じて同年三月六日頃から右吉田のもとへ仕事に通うようになつた。しかして右吉田と原告との関係は、吉田がかつて原告の現住所である栃木県益子町において乾麺結束機などの発明研究事業をなした際において原告は無償でこれに協力し、また原告の両親も種々援助を与えていたこともあつて、単なる雇主と被雇傭者というに止まらず、きわめて親密で親子の感情をもつに近い程の関係だつたので、特別に賃銀の協定とか出勤日とか出勤時間について明白な契約を結ぶということもなく、賃銀は原告に金がない時に三日おきとか四日おきという具合で平均日給六百円程度を支給されたが、原告の方も出たり出なかつたりで月平均一五日ないし二〇日間位しか出勤しなかつたので収入は原告が前記八幡製作所より得ていた月平均収入一五、〇〇〇円ないし一二、〇〇〇円より減少し月平均にして八、〇〇〇円から九〇〇〇円程度になつてしまつたが、仕事の程度は、八幡製作所での仕事が旋盤工として相当に激しいものであり、しかも工場内の設備とか建物の状況等が非常に悪く、保健衛生上好ましくない状態であつたのに対し、右吉田のもとにおける原告の仕事は、機械製作上旋盤作業を行う日でも一日平均三、四時間を越えることなく、しかもそれも月平均一〇回位しかなく旋盤作業の全くない日もあり、その他の時間は吉田の研究の手伝い使い走りが主な仕事でそれも疲れれば休み、また出勤時間、退社時間などについての格別の制約もなく、その労働の程度は八幡製作所におけるそれに比しかなり軽いものであつた。しかして、このような状態は、右吉田の前記パン乾燥機発明事業が同年七月末に完成し、原告自身手伝うような仕事がなくなるまで続いた、このように認めることができる。原告は、右吉田と原告との間に雇傭契約のあつた事実はない旨主張し、原告本人尋問の結果中には、原告が吉田から得た金銭的収入は原告と吉田の従来からの特殊な関係から、労働の対価としてでなくいわば恩恵的に支給されたものであるとの趣旨の供述部分が存し、右両者間に特別親密な関係が存在していたことは前記認定のとおりであるけれども、前掲吉田証人、佐治証人の各証言によつて認められるように、右吉田は必ずしも金銭的に余裕があつたわけではなく、原告に与えられた金銭も、主として発明依頼者である前記株式会社三栄から吉田に謝礼兼必要経費として支給され月額三万円なしい二万五千円程度の金員のうちから支払われたものであり、また吉田が当時依頼された機械の製作を完了するためには旋盤作業その他について他の助力を必要としていた事情にあつた事実に徴するときは、たとえ、右の如く、原告と吉田との間に特別の関係があるにせよ、原告からのなんらの反対給付がないのに全くの恩恵として上記金額の金銭を原告に与えるほどの余裕や気持が吉田にあつたものとは考え難いから、右の原告が吉田から得た収入は、その給与額、給与条件等において右の如き原告と吉田との間の特殊な関係から通常の雇傭関係においては考えられない程原告に有利な内容のものであり、その限りにおいて恩恵的要素がかなり混入していることを否定し難いとしても、なお全体としてみればやはり原告の労務提供に対する反対給付たる性質をもつものと認定するのが相当であり、原告本人の前記供述部分は採用することができず、他にこれを左右する証拠はない。

(二)  ところで、原告は本件傷病手当金に関する被告の裁決のうち、資格喪失後の傷病手当金の支給に関する部分についてのみその違法を主張するものであるから、本件においては、原告が資格喪失後における傷病手当金の継続給付を受ける権利を有するかどうかのみを検討すれば足りるわけであるが、かかる傷病手当金の継続給付を受けうるためには、右の者が被保険者資格喪失の当時、傷病の療養のため労務に就くことができない状態にあることと、その後も同様の状態にあることを必要とすることは、健康保険法第四五条、第五五条の規定に照らして明らかである。しかるにこの点につき被告は、原告が前記認定のごとく原告の被保険者資格喪失の日たる昭和二八年三月二六日の前後を通じて訴外吉田隆蔵の下で働らき、賃銀を得ていたから、病気療養のため就労不能の状態にある者ではなかつたと主張し、原告はこれを争い、右当時、原告は病気のためその本来の業務である訴外株式会社八幡製作所における旋盤工としての労務に服することができない状態にあつたのであるから、たとえ生活の資を得るため副業や内職のような本来の労務と関係のない他の労務に服した事実があつたとしても、傷病手当金受給要件としての就労不能たることに妨げはないと主張するので、以下にこの点につき判断を加える。

健康保険法に定める傷病手当金の受給要件としての療養のための就労不能になるかどうかは、その者の本来の職場における労務を基準とし、療養のためかかる労務に就くことができるかどうかという見地からのみ判断すべきにとどまらず、その者の傷病の状態がかかる本来の労務に就くことを不可能とする如きものである場合であつても、他の比較的軽微な労務に服することが可能であり、現に職場転換その他の措置によりかかる可能な軽労働に服し、これによつて相当額の賃銀を得ている場合にもまた、同法にいう療養のため労務に就くことができない場合に当らないと解すべきものであることは、右傷病手当金給付の目的が被保険者が療養のため就労不能を余儀なくされることに伴う賃銀の喪失による生計の困難をある程度まで補いこれに最低限度の生活費を保障しようとするにあることに照らし、多言を要しないところというべきである。しかしながら、他方において、当該被保険者が自己の就労先である事業所等において右のごとき労務に服することができなかつた以上、その間において、幾分でも生計の補いとするために副業ないし内職のごとき本来の労務に対する代替的性格をもたない労務に従事したり、あるいはなんらかの事情により当然受けうるはずの傷病手当金を受けることができなかつたためやむを得ず右手当金の支給があるまでの間の一時的なつなぎとして軽微な他の労務に服し、賃銀を得るような事実があつたとしても、これによつて傷病手当金の受給権を喪失することはないと解するのが相当である。

以上の解釈を前提として本件の場合をみるに、原告は、肺結核の療養のため、その本来の労務である訴外合資会社八幡製作所における旋盤工としての労務に服することができない状態にあつたけれども、その間昭和二八年三月六日頃から被保険者資格喪失の日たる同月二六日まで訴外吉田隆蔵の下において就労し、収入を得ていたことは、前に認定したとおりである。そこで右吉田方における就労が原告の傷病手当金受給資格を喪失せしめるものであるかどうかを検討するに、さきに認定したように、原告の吉田方における就労状態は一カ月のうち半分または二〇日ぐらい吉田方で働らき、そのうち、まとまつた作業は機械旋盤作業であるが、これを行う日でも一日平均三、四時間を越えず、それも月平均一〇回程度で、それ以外は吉田の研究の手伝い、使い走りというようなあまり頻繁ではない雑用が主な仕事であり、これらの仕事も疲れればいつでも休むという有様で、労務の開始、終了についての時間的な制約はなんら存在していなかつたというのであり、全体としてみれば通常の雇傭関係における労務の提供とは著しく趣を異とし、むしろ個人的な仕事についての間けつ的な手伝いという方がよりぴつたりするようなものであつたこと、吉田の許で就労するようになつた事情も、原告が傷病手当金が降りないので生活費に窮し、知人の吉田に善後策を相談した結果、同人から右手当金が降りるまで一時自己の仕事の手伝いをしてはどうかという好意ある申し出を受け、これに従つたものであること、右就労の対価として吉田から与えられた賃銀も、そのすべてが純然たる労務の対価といいうるものではなく、そこには吉田と原告との特別な関係に基づく生計扶助的意味をもつた恩恵的給付たる部分もかなり混入していると認められること等の事情を総合して考えるときは、右吉田方における原告の就労は、その本来の勤務先である訴外会社における労務に対する代替的性格をもつものとはいい難く、これを純然たる副業とはいい得ないとしても、これに準ずる程度のものと認めるのが相当であるのみならず、傷病手当金が降りるまでの一時的なつなぎとしての就労であるという点からみても、これによつて原告が傷病手当金の受給資格を喪失するごとき就労と認めることは妥当でないというべきである。そうだとすると、原告は、結局被保険者資格喪失当時において傷病手当金の受給資格を有していたものといわなければならない。

もつとも、傷病手当金の継続的給付を受けうるためには、前に述べたとおり、被保険者資格喪失当時傷病手当金の受給資格を有していたのみならず、その後も同一傷病の療養のための就労不能の状態が継続して存在していることが必要であり、この場合においては就労不能の状態かどうかは、被保険者資格を有していた当時におけるそれと異なり、一般的労務を基準としてこれに服することが可能かどうかという見地から判断せらるべきものであるから、次に原告が被保険者資格喪失後も、かかる意味における就労不能の状態にあつたかどうかを検討する必要がある。そこで考えるのに、被保険者資格喪失当時における原告の健康状態は、前記のように、肺結核症のため療養を必要とする状態にあり、その病気の程度については、証人崎田平二(第二回)は、厚生省制定の結核治療方針における安静度表の五度ぐらいのものであると考える旨証言し、他方証人松本一郎は、レントゲン写真をみないのではつきりしたことは分らないが、崎田医師のカルテの記載からみれば安静度六度ないし八度ぐらいではないかと思う旨証言しており、右両証言の食い違いからみて原告の病状をどの程度のものであるかを的確に判断することは困難であるが、前掲甲第三号証によれば、その後原告が、昭和二八年九月に真岡保健所において診断を受けた際には、右鎖骨下に空洞を含む結核性浸潤があり、一年間の安静加療を必要とする旨の診断がなされており、右はいちおう崎田医師によつて発見せられた浸潤部分がその後悪化したものと推認せられることから考えると、原告の同年三月末以降における病状は、安静度六度ぐらい、少なくとも安静度七度を下るものではないと認めるのが相当である。そして成立に争いのない乙第七号証の一、二によれば安静度六の場合は普通人の半人前の生活、七の場合には普通の七ないし八分目の生活程度にとどまるべきものとされているのであるから、このような状態の下においては、一般的労務に服することは困難であつたといわざるを得ない。もつとも、原告が被保険者資格喪失後も昭和二八年八月頃まで引き続き前記吉田方において就労していたことは前記のとおりであるが、右事実は原告が当時一般的労務に服することが不能な状態であつたことの妨げとなるものではないし、また右就労によつて賃銀を得たことが告の傷病手当金受給資格を喪失せしめるものでないこともすでに説示したとおりであるから、原告は被保険者資格喪失後も健康保険法所定の期間継続して傷病手当金の給付を受ける権利を有していたものといわなければならない。そうだとすれば原告は本件傷病手当金の支給事由が生じた日、すなわち原告が療養のため訴外会社を欠勤した昭和二八年二月一日から健康保険法第四五条所定の三日間の待期期間を経た同月四日から起算して、右傷病手当金支給期間の終期である昭和二九年八月三日までの間(原告は昭和三一年八月三日までの期間の受給権があると主張するが本件傷病手当金の支給期間は、健康保険法第四七条同法施行規則第五六条の四により右支給事由の生じた日から一年六月の間に限られているから、原告の右主張は明らかに失当である。)の傷病手当金の請求権を有するわけであるからこれと異なる見解のもとに原告にかかる給付請求権が全くないものとして原告の審査請求を棄却した被告の裁決もまた違法として取消しを免れない。

よつて原告の請求はいずれもこれを認容すべく、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

東京地方裁判所民事第二部

裁判長裁判官 位野木益雄

裁判官 中 村 治 朗

裁判官 清 水  湛

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